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日本画 安田靭彦

安田靭彦

日本画家 安田靭彦は、1884年に生まれた大正期から昭和期に活躍した画家です。歴史画の大家として名を轟かせており、法隆寺金堂壁画の模写を青邨と共に描いたことでも、広く知られています。東京に生まれた安田靭彦は、最初は画家を目指してはいなかったのですが、帝室博物館で法隆寺金堂壁画等の模写を見て感動し、志を絵画に向けました。さらに、日本絵画協会絵画共進会にての横山大観や菱田春草、小堀鞆音などの大家の作品を目の当たりにして、自らもこの世界で生き抜いていくことを決意します。結果的に、その中の小堀鞆音に入門し、絵画の基礎を学び始めることとなります。様々な活動を経て行くなかで、この頃から青邨と交遊を深めて行き、紫紅会を結成して活動の場を広げて行きます。さらに、絵画への興味を深めていくために、東京美術学校に入学をします。しかし、こういった教育方針が肌に合わなかったのか、結果的に中退をしています。第一回の文展での出品の際、その才能を岡倉天心に認められることになります。その後に、奈良に遊学という道に進むことになるのですが、結果的に病を煩ってしまい、帰郷しています。苦しみながらも、制作を続けて行き、結果的には様々な作品を出品し続けることとなり、再興日本美術院創立同人に選出されるという快挙を成し遂げ、「御産の禱」を出品、安田靭彦の画業は断然に上昇していきます。その後も、帝展に「役優婆塞」を発表、第二回新文展に「孫子勒姫兵」を、古典であったり古美術をアイデアソースとした、上品でありながらも力強い芯の通った作品を多く、残しています。そして、帝国美術院会員等に選ばれるなど、大きな飛躍を遂げて行きます。安田靭彦の描く、屏風絵も非常に評価が高く、紙本著色黄瀬川陣では繊細なタッチと、大胆な構図で独特の世界観を打ち出しました。1965年には、東京芸術大学名誉教授を歴任。東京国立博物館評議員会評議員や文化財審議会専門委員であったり、国立近代美術館設立準備員など、日本の美術界に広く貢献しています。歴史画の大家と謳われた、安田靭彦こそ、日本を代表する芸術家の1人なのです。